「直訳」と「意訳」(1)

1月15日付の『雌が雄を喰うという習性(1)』で八木沼氏が『クモの学名と和名の中で』、「ゴケグモ」とは“widow spiderの訳”と記述している、と書きました。これは、“ ”の中に入れたように、大意であって、そのままの表現ではありません。

実際には、「和名はその直訳」と表現されています。

この「直訳」という表記はあまり感心しません。これは、通常の翻訳作業の際の用語で、主に逐語訳を差しますが、一般に、「安易で稚拙な訳」というニュアンスがあります。「直訳」に対して、このことば(単語・文)が持つ文化的な背景や用法を考慮した的確な訳を「意訳」と言っています。

外国語を日本語に訳すに当たって、単語を置き変えるのは自然な作業です。逐語訳だからと言って、「直訳」と断じるのは早計です。

大分以前に、trap door spiderを「しかけとびらぐも」と訳した人がいました。「トタテグモ」という和名が定着しているのですから、こちらを使用するべきでした。また、この人はorb web(オニグモやコガネグモが作る円網)を「球形の網」と訳していました。専門外の人がクモ学者に相談せずに、いきなり科学雑誌に寄稿したのは、些か軽率でした。これなどは正に直訳と言えます。(未完)

雌が雄を喰うという習性(3)

同種のメスがオスを喰ってしまうという行動は、残酷かつ衝撃的に受け止められやすく、その毒性とともに、世間に注目されたことは、想像に難くありません。

まず、前回も述べたように、肉食の小動物にとって、自分以外の個体は敵か餌です。クモのオスも通常は共喰いをします。
個体群の中でのオスの役目は、メスに精子を受け渡すことで、生殖行動を全うすれぼ、残りのじ寿命はほとんどありません。大往生したとすれば、死骸はそのまま朽ち果てるか、蟻の餌になるだけです。メスに喰われて、次世代の栄養になることは、種の観点からは、オスの身体を有効に利用することになります。

同様のケースはカバキコマチグモのメスにも見られます。本種のメスは産卵後は卵嚢を保護して、子グモが卵嚢を出る(出廬)まで見届けます。出廬した子グモたちは母親を襲って、身体を喰ってしまいます。メスは抵抗も、なすがままに任せるそうです。
今のところ、コマチグモ属の他の種では、この習性は確認されていません。

この事例が報告された時には、世界のクモがくしゃは一様に驚いたといいます。中には、「異常例ではないか」と考えた学者もあったようです。

雌が雄を喰うという習性(2)

交尾期にメスがオスを喰うという習性では、カマキリが有名です。しばしば、「男の悲哀」として語られますね。
クモの場合も似た習性が認められますが、喰われるのは主に交接(注)後です。肉食動物の場合、近づく者は敵か餌なので、反射的攻撃するのは 自然な行動と言えます。

これを防ぐために、オスは自分が仲間であることをメスに知らせる信号を発するケースがあります。オニグモ類では、オスがメスの網の外縁で糸を弾きます。一定の波動でメスを安心させるのだと思います。メスが警戒を解いているわずかな間に、オスは役目を果たすのですが、ボヤボヤしていると、我に帰ったメスの餌食になってしまいます。ゴケグモ類の場合も、これに類したパターンと思われます。

ウェブスター英語辞典のwidow spiderの項に「交接後にオスを喰う」習性が紹介されているので、ゴケグモ類特有と誤解されますが、本属だけのことではありません。

一般に造網性のクモは視覚があまり発達していないので、振動を利用しますが、徘徊性のクモ、特にハエトリグモ類は視覚が発達しているので、俗に「クモのダンス」と言われる行動をとります。オスがメスの前で第1脚を広げて、様々な姿勢を見せ、メスもこれに答えます。いわば、ボデーランゲージですね。(未完)

(注)クモは生殖行動の際に、生殖器同士を接触することはしません。このため、「交尾」という用語はあまり使われません。
オスの触肢(触覚器および腕に相当する器官)の先は膨らんでいて、オスは予めここにせいえきを貯めて、ここからメスに受け渡しします。接触時間を短縮するためでしょう。
従って、オスの本来の外部生殖器には穴が二つあいているだけですが、触肢の先には、オサムシやザトウムシ、カタツムリの陰茎同様の複雑な構造が発達しています。

雌が雄を喰うという習性(1)

「『ゴケグモ』という名称は交接後にメスがオスを喰い殺す習性に由来する」という語源論が世間では流布しています。「『ゴケグモ』は女性蔑視」とする意見もここから出たのではないかと思います。

「メスがオスを殺して、結果的に“未亡人”になったから後家蜘蛛」という、回りくどい語源論は学界の定説というわけではありません。命名者や命名者から直接話を聞いた人の証言が残っているわけでもありませんので。1995年の「毒グモ騒動」の際に、語源説として紹介された一つが、あまりに面白かったので、マスコミに乗って広まったというのが実相です。

日本のクモ研究の第一人者、八木沼健夫氏が九州大学の平嶋義宏(昆虫学者、ラテン語・ギリシャ語に詳しい)・大熊千代子(クモ学者)両氏と共に編纂した『クモの学名と和名』では、“widow spiderの訳語”(73頁)としているだけで、その由来については触れていません。

語源の問題に関しては、別の機会に述べさせていただくとして、今回は、この一見ショッキングな習性について述べることにします。(未完)

ゴケグモ毒に対する誤解:フグ毒との混同(2)

前述の「フグ毒との混同があったのではないか」という推測は、全くの当て推量ではありません。私はそれをにおわせるコメントをもらっています。

①フグはペプチドだから、アナフラキシーショックは起きないのではないか?
②毒素を製造するバクテリアを伴わないので、日本に定着したセアカゴケグモには強い毒がないのではないか?

私の発言にこのような反応があるのは有難いことです。これを検証しましょう。
①について
フグ毒が「ペプチド」であるか、私には詳しい知識がありません。しかし、フグ毒は加熱しても不活性化しませんし、分子量が319.27と小さいので、蛋白質でないことは確かです。これに対してゴケグモ毒の分子量は13万です。
元々、フグ毒との混同から生じた疑問ですから、これといった根拠はありません。

なお、大阪府は公式サイトで、「セアカゴケグモにアナフィラキシーショックはなし」と明言しています。その根拠は、
「ゴケグモ毒を注入したマウスに抗血清を投与したところ、ショックは起きなかった」
ということのようです。
しかし、アナフィラキシーショックはアレルギー反応ですから、それが起きるか否かは検体の体質によります。当時の府立衛生研究所にアレルギー系統のマウスが準備されていたとは思えません。
これとは別に、「咬傷被害者にアナフィラキシー反応が起きた例があるが、大事には至らなかった」という情報がありました。これは単に「死亡しなかった事例があった」ということを意味します。

②について
最近、「フグ毒が底性バクテリアによって作られる」ということが広く知られるようになりました。しかし、すべての有毒動物がバクテリアに依存していることが証明されたわけではありません。
私は、ゴケグモ毒のこの方面に関する知識は持ち合わせておりません。自力で製造するかもしれないし、毒素を作る微生物と共生状態にあるのかもしれない、あるいは、日本列島に既存の微生物がセアカゴケグモに毒素を提供してた可能性もあるとしか申せません。

しかし、1996年の大阪府の毒性試験で、オーストラリアの個体と同程度の毒性が確認されたのは事実です。

そもそも、バクテリアとセットで侵入しなければ、毒素を保有できないのならば、多くの有毒な外来生物は危険性が少ないことになります。

ゴケグモ毒に対する誤解:フグ毒との混同(1)

1995年に大阪府高石市でセアカゴケグモが発見された際の報道で、世間はちょっとしたパニック状態に陥りました。「超猛毒で、咬まれたら瞬殺」と誤解した人もあったようです。
その後、大阪府による「ヒトは咬まれても死ぬことはない」と発表があり、今度は「毒グモなんか怖くない」という認識に変わりました。「心配して損した。大袈裟なデマを流した責任者、出てこい」という心境だったのでしょう。

どちらも不正確です。私としては、後者の楽観論の方に問題が多いと思っているのですが、それについては別の機会に述べるとして、今回はなぜ当初は人々が過大な恐怖を抱いたのかを考えてみましょう。

無論、「人が死ぬこともある毒」と聞けば、穏やかではおられないのが人情です。しかし、過剰反応の原因の一つに、フグ毒との混同もあったのではないでしょうか?
日本人にとって、フグ毒は最もお馴染みの自然毒ですから、反応が顕著なのは当然です。「フグ毒といえば、青酸カリの千倍近い強さだ。しばしば犯罪に使われる青酸カリ(シアン化カリウム)は時に投与後数分でヒトを死に至らしめる。フグ毒ならば秒殺ではないか」と心配するのも当然です。

ただし、考えてみれば、フグの中毒でヒトが数秒で死んだという話は聞いていません。動植物に含まれる毒素と工業的に精製されたものには濃度に大きな差があります。表面的な比較は禁物です。

ところで、ゴケグモ毒は「αラトロトキシン」、フグ毒は「テトロドトキシン」で別物です。どちらの名称もそれそれの動物の学名に由来します。「トキシン」が共通するので紛らわしいですが、これは毒素を意味する接尾辞です。

さて、ゴケグモ毒のLD5(半数致死量)は0.59、フグ毒は0.01です。LD50は数値が小さいほど、毒性が強いので、ゴケグモ毒はフグ毒にはるかに及びません。ちなみに、シアン化カリウムのLD50値は3~7ということです。(未完)

ゴケグモに関する様々なテーマ

セアカゴケグモ等ゴケグモ類に関しては、国内でも様々な話題が出ています。
20数年前までの日本列島は「毒グモ」とは無縁の世界でした。1995年の降って湧いた「毒グモ騒動」以前に毒グモ(毒性が特に強いクモ)に関して十分な知識を持っていた国内のクモ学者は4人だけでした。

私を含めて、大多数の日本のクモ学者の認識は、
①海外には、時にヒトを死に至らしめるような強い毒を持ったクモが存在する(らしい)。
②そのような「毒グモ」の情報の中には、誇張や創作が混じっている例が多い。
の2点でした。はやく言えば、どのクモが本当に危険な毒グモで、どれがガセなのかの区別自体が理解されていませんでした。

1995年に、世間が一旦「こりゃ大変だ」と騒いで、直後に「毒グモなどは幻想だ」と冷えてしまったのもこのためです。研究者の多くも、行政担当者も、マスコミ関係者も多分に憶測でものを言っていたというのが「騒動」の実態です。また、クモ学者の中で楽観論を唱える人がありましたが、セアカゴケグモを②のケースと即断しているケースがほとんどです。

私は現在、以下のようなテーマを温めています。
・セアカゴケグモの毒性に地方差はあるか?
・日本国内で毒性は弱まるのか?セアカゴケグモは本当にオーストラリア原産か?
・日本列島にゴケグモ属の在来種はいるのか?
・1995年の「騒動」時は上陸何年目か?
・「ゴケグモ」という和名は女性蔑視か?
等々です。どうか御期待ください。

なお、煩雑になるのでブログ上ではロジックや出典を省略することがあります。詳細は研究誌上に小論文として発表していきますので、そちらも御案内します。

論争には飛入り歓迎です。新しいテーマを引っ提げて、参入してくださるのは、さらに大歓迎です。